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        本書を推薦します          廣瀬 惺

 『悪人をたのむ』・『悪弟子の命脈』に続く本講話は、大島義男氏の「悪人」シリ−ズ第三弾である。ただ、今回は「悪人」・「悪弟子」から「悪世」へと、氏の課題が展開している。機(一人)から世(時代社会)への展開である。

 悪世とは、五濁悪世である。それを氏は、「共同体が崩壊していく世」であると押さえる。そして、であればこそ、その世を生きる我われは共同体を求めてやまないのであり、その情熱こそが「悪世に逆流する熱情」なのである。共同体が見出せなければ、生きていけないし、死んでいけないのである。そういう課題をかかえているのが、現代という時代を生きる我われなのである。

 氏の語りの世界は、泥臭いといえるほどに現実的であり具体的である。そこには、観念や概念への飛躍を決して許さない氏の姿勢がある。本講話は、氏と深い縁があり、いのちを終えていかれた何人かの方々への思いから語り始められている。特に、癌をかかえられて、「死んでいくことが残された唯一の仕事である。どうしたら死んでいけるのか」と、氏に問い続けた一人の先輩の問いを受け止めることを通して、人間がどうしたら死んでいけるのか、どうしたら生き切っていけるのかを、氏自身の聞法の歩みを通して尋ねてこられた、その軌跡を語られた講話であると言ってもよいであろう。

 「どうしたら死んでいけるのか」という問題は、「出離生死」として、仏教が提起してきた人間にとっての根本問題である。その問題について、それらの方々が、友を求めて友を得、友に囲まれていのちを終えていかれたという氏が眼前にした事実を通して、そこに、『大経』がテ−マとする「国土建立」の問題があると指摘される。人間にとっての根本問題である成仏の課題に応える道が、「往生浄土の道」であるというのである。そして、その国土への往生は、「念仏申せ」との仰せを聞くことによってなされるのであり、その仰せは、「凡夫の身に帰れ」との呼びかけであると押さえられている。

 「凡夫の身に帰れ」との呼びかけを聞く。それは、最初の講話集『悪人をたのむ』以来の一貫した氏の確信である。そのこと一つを仰せに聞き、そのことを自身の課題として歩み続け、もって、凡夫に帰ることを叫び続けておられるのが氏である。

 本講話において、その叫びが、いよいよ聞くものに深い説得力をもって迫ってくることが感じられる。読むものをして、さらなる歩みに促さしめる講話である。本講話を読み終えて思われることは、氏は実に有り難い人であるということである。