廣瀬 惺先生の 『悪人をたのむ』への推薦文
平成14年3月30日
●仮立舎からの一言
この廣瀬先生の推薦文は、平成14年になってから、遅まきながらの、しかも予想もしなかった『悪人をたのむ』の増刷ということを機会に、仮立舎・大竹が廣瀬先生に推薦文をお願いして、頂戴したものです。
これが果たして単なる「推薦文」なのか? そういうことをここからは強く感じます。つまり、「推薦文」というかたちを取りつつ、「先生ご自身が学んできたことの在り方、そのもの」への、非常に重大な問題提起を、ご自身で語っておられるということがあるからです。しかもこの「問題提起」は、単に先生の個人性における問題点ということだけなく、真宗大谷派教団が抱えている問題点にも及んでくるものという、「歴史性ある問題提起」であると仮立舎は受取っております。
むろん、この「推薦文だけ」では、先生のなされた「問題提起」ということのその内容が判然としてくるわけではありません。あくまでも、『悪人をたのむ』と「推薦文」との相互関係ということがあるわけです。
仮立舎としましては、一人でも多くの方々に、廣瀬先生・大島義男氏との「照らし合わせ」に読者として参画して頂くことを、こいねがうものであります。
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力に満ちた語りの書、
大島義男講述『悪人をたのむ』( 一人の信の公共性)
を推薦します。
大島義男氏といえば、私には、親鸞の書簡集に記されている法然の語である「浄土宗の人は愚者になりて往生す」を、身をもって証ししていこうとしている男、というイメージが強い。
この書は、私の畏友大島義男氏の講義録であるが、最初から最後まで、これほどに力ある語りの書に、私はこれまで出会ったことがない。
この書をつらぬいているものは、「悪人の身になり、悪人の身を生きていく」という言葉が繰り返されているところにも知られるように、凡愚の仏道を開顕し続けてきた浄土仏教の流れに身をおいて、その仏道を自ら生きようとする狂おしいまでの氏の求道的情熱である。
私は、氏の語りに引き込まれるようにして一気に読み終えた。そして、しばらくはその余韻を楽しんだのである。しかし、この書はそれでもって終わることを許してはくれなかった。
その後、この書に心酔している私の中に、氏の語りの内容に対する信順のみならず疑謗の念がフツフツと沸き起こってきたのである。その疑謗が何を意味しているのか、いまもって私には充分に分からないでいる。しかしその疑謗は、私自身の、親鸞そのものへの疑謗につながるものであるかもしれないという恐れにも似た思いがある。
そして、確かなこととしていま言えることは、この書と出会って以降の私の親鸞の学びは、私自身が思い描いている親鸞像と、この書、もっと言えば大島氏の生そのものとの格闘の中に営まれ続けているということである。それほどに、この書は私にとって衝撃的な書なのである。
もって、有縁の方々にもぜひご一読をお薦めしたいと思う。そして、同時代を生きる者として、いたずらに時代思潮に翻弄されるのではなく、親鸞に縁をいただいた者として、お互いに自分たちの言葉をもって人生・世界を問い、語り合っていきたいと願わずにはおれないのである。
廣瀬 惺
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